長曾我部元親がその報せを受けたのは豊臣が天下を平定し、漸く落ち着いてきた頃だった。

 毛利元就が病に倒れる。

 その人物と元親とはまだ日本が戦国の時代にあった頃に瀬戸内の利権を巡って幾度となく争っていた。
 元親とは性格も考え方もやり方も正反対なため、戦乱の間は決して相容れることはなかく、お互いが豊臣の下に下ってからは接触する機会すらなかった。
 互いが互いを理解できなかったし理解しようとも思わなかった。気に食わない相手。ただそれだけ。

 だから元親が彼の見舞いに行こうと思ったのは本当に只の気紛れだったのだ。
 あの誰にも弱味を見せようとせず、矜持だけがやたらと高い毛利元就が一体どんな顔で苦しんでいるのだろうか。敢えて理由を挙げるとしたらそんなくだらない理由だ。


「久しいな、長曾我部。」
 元親は元就の寝室へ直接通された。どうやら床から出ることすら出来ないほど衰弱しているらしい。
 現に彼の顔は最後にあってから大分老け込んでいた。眼は落ち窪み、顔中皺だらけ、おまけに髪までごっそりと抜け落ちている。瀬戸内での戦のときと比べると見る影も無い。
 元親はそんな元就の様子に多少驚愕したが、そのまま何食わぬ顔をして元就の脇まで進み、どかりと腰を下ろした。礼儀も何もなっていないその所作に元就は眉を顰め、相変わらずだなと呟いた。
「へっ!そうそう変わりゃしねえよ。
 ま、あんたの方は大分変わっちまったけどな。」
 それは暗に今の惨めな姿を揶揄した言葉だった。
「我とて変わらぬ。強いて変わったというのなら、前より少しばかり身体が動かしにくくなった。それのみよ。」
「憎まれ口の方は変わっちゃいねえみたいだな。」
 元親の嫌味に元就はフンと鼻を鳴らし、庭に植えられている満開の桜を見上げた。
 ふと、元親は何とも言えない違和感を覚えた。
「そもそも貴様、何をしに来た?」
「あ?」
「我を哀れみにでも来たか?」
「ひでえ言い草じゃねえか。折角こうして遥々瀬戸の海を渡ってきたってのによ。」
「誤魔化しても無駄だ。
 貴様の全身で語っておるわ。“我が哀れでならぬ”、“あの毛利元就が何と惨めな姿に成り下がったものよ”と。」
 元就の言っていることは全て核心を突いていた。そもそも彼に会いに来た理由が理由だ。
 しかし、そう言う元就の口調は元親を責めているでもなく、自嘲しているわけでもなく、ただただ静かだった。
「だが残念だったな。我は我を哀れとも惨めとも思っておらぬ。
 我は今、幸せだ。」

 元就の言ったことを元親はすぐには理解できなかった。
「どうした?信じられぬという顔をしておるぞ?」
「まあ…な。
 あんたがいきなり変なこと言うもんでちょいとびっくりしちまった。」
「意外か?」
「意外だ。あんたはそういうのとは無縁だと思ってたからな。」
 聞き様によっては非常に失礼なその言葉を、しかし元就は眉一つ動かさずにほうと返しただけだった。
「昔のあんたは……。」
 言いかけて止める。今更昔の所業を断罪したところでどうしようもない。
「昔も昔で我は幸福であった。」
だが、その一言で元親の怒りは元々低い沸点を超えた。
「幸福?敵味方関係なくバンバン殺していくことがてめえの幸福か!?
 はっ!笑わせてくれるぜ毛利元就!
 それが幸福だってんなら、てめえはもう人間じゃねえよ。
 え?どうなんだ?」
 激昂する元親を前にして、以前の彼なら同じように興奮して言い返してきていたが、今ではそんなことは無いのだろう。冷静に自分の考えを纏めているようだった。
「……それでも我は幸福だった。
 毎日日輪を拝む度に中国を、毛利を守ることが出来たことに心が満たされていた。」
「お家を守れりゃ十分ってか。
 自分勝手なことに変わりはねーじゃねえか。てめえの都合で部下まで殺してるってことはよお!」
「その通りだ。だが、そなたはどうなのだ、長曾我部?」
 唐突に自らの話を振られて元親は言葉を詰まらせた。
「そなたとて、自らの身勝手な“宝探し”とやらで戦を幾たびも起こしておろう?その度に己の兵は死んでいったのではないのか?それともそなたは誰一人として傷つけず、まして死なせることもせずに戦に勝利してきたというのか?」
 そんなことはない。
 戦は殺し合いだ。起これば自軍にも敵軍にも必ず死者は出る。だがそれは戦なのだから仕方がないではないか。
 そこまで考えが及んだ時、はたと気がついた。

 “戦に犠牲は付き物”

 今自分が考えていたことは元就が以前戦場で漏らしたことと変わらないではないか。
「我もそなたも変わらぬ。
 只その胸に抱く信念のみが違うだけよ。」
 それは、以前戦っていたときの言葉とは180度違う言葉で、気付いたとき元親は喉の奥で笑っていた。
「前のあんたじゃ考えられねえ物言いだな。あんときは真っ向から俺とあんたは違うって否定してきたくせによぉ。」
 ゆっくりと、元就はその眼を閉じた。
「拒絶せねばならなかった。
 受け入れれば流される。流されれば情が湧く。情が湧けば切れぬ。切れねば殺られる。殺られれば我が信念は潰える。
 それこそ志半ばで散っていった者たちにあの世で会わせる顔が無い。
 それはそなたとて同じであろう?」
「俺は……。」
 再び元親の姿を見据える元就を前にして、彼は言いよどむ。

 よくよく考えてみれば、今も昔も自分は元就のことを少しも知らない。ただ気に食わないという理由で彼の主張に耳を塞いでいただけだ。
 それは、元就が言っている通り、自分もまた無意識のうちに彼を否定してきたことを意味している。

 不意に、襖の外に人の気配が出来た。
「元就様、失礼いたします。」
「どうした?」
「輝元様が元就様にお目通りを願いたいと。」
「通せ。」
「御意。」
 短く返事をして従者は一度引き下がり、代わりに歳若いまだ少年とも言える若者が襖を開けて姿を現した。
 その若者は失礼しますと一度深く頭を下げ、そしてその時初めて元親の存在に気付いたのだろう、酷くうろたえだした。
「も、申し訳ありません!お客人がいるなどとは露知らず…」
「構わぬ。目通りを許したは我ぞ。
 それより長曾我部にそなたのことを紹介しようと思うていたのだ。
 面を上げよ。」
 彼は、はっと短い返事を返すと恐る恐るといった感じで顔を上げた。
 若者のその端正な顔立ちには、どことなく若かりし頃の元就を髣髴とさせるものがあった。
「ほぉ、あんたの末の息子か?」
「我のではない。我の息子のだ。
 輝元は我が孫よ。
 先日元服をしたばかりでまだまだ青いところはあるが我に似て中々頭は出来る。」
 紹介を受けた輝元は祖父に褒められ誇らしげに笑みを浮かべ、元親に頭を下げる。
「して輝元よ。如何した?」
「はっ、お爺様に今日という喜ばしい日を祝い、これを献上いたしたく。」
 そう言って差し出したのは見事な京菓子であった。
「何と……。態々すまぬな。ありがたく頂こう。
 用はそれだけか?ならば下がるが良い。」
 輝元は三度頭を垂れると、静かに部屋を後にした。

「何だ、今日なんかの祝いの日だったのか?それなら突然来ちまって悪いことしたな。」
「大したことではない。
 記録によれば今日は我が生まれた日らしい。異国では歳の祝いはその人物が生まれた日にやるのだという。その話を息子達が風の噂で聞き、こうして祝いの品を持ってきてくれているのだ。」
 淡々と話すその表情だけを見れば常と変わらない無表情。しかし、言葉尻や雰囲気などを汲み取ると彼が喜んでいることは明らかで、そう言えばこいつは案外分かりやすい奴だったなとふと思い出す。
「……そのように物欲しそうな眼で訴えたところで貴様には一欠片とて分けぬぞ。これは我のだ。」
「いや、別にいらねえし。
 ってかそんな甘いもんばっか食ってっと更にハゲが進むぜ。」
「ふん。この愚か者が。
 我は禿ているわけではない。ちょうど今が毛の生え変わりの時期なだけよ。」
 そのようなことも判らぬのかと見下したように言われた言葉に、あーそうと適当に返事をしたところではたと気付く。

 元就はどんなに切羽詰った状況であろうと筋の通らないことは言わない。では今のは何だったのだろう?元就のハゲは明らかに歳。もしくは病気のせいということもあるだろうが、原因の大半は恐らく前者。大体にして人間に毛の生え変わりとかそういったものがあるわけが無い。そんなこと元就だって知らないはずは無い。
 もしかして冗談を言ったのだろうか?あの毛利元就が?
 ここに来る前だったら有無を言わさず即答でありえないと答えただろうが、今はもしかしてそうなのかもしれないという考えにも行き着いた。

 元親が漸くそこまで至った頃には既に元就は貰った京菓子を平らげていた。
「毛利……。」
「ん?」
 さっき冗談を言ったのか?とは流石に聞けなくて、代わりにやっぱり変わったなと元親が今の元就に対する思いを吐き出した。今度は皮肉などではなく純粋にそう感じたことを。
「我は何一つとして変わってはおらぬ。変わったと思うのはそなたが我を知らぬ故よ。
 我は変わらずただ時のみが過ぎていくに過ぎぬ。」
 そんなこたねえだろと言おうとして止めた。我の強い人間だ。それが相変わらずなのだと自身も豪語しているのだから言ったところで聞くまい。
 変わったものもあれば変わらないものもある。それでいい。
 元親の中でそう結論付けてその話はそれで終わった。


 元就は不幸だと思う。
 若い時分から全てを背負って、生きるのに一杯一杯だっただろう。だからといって、ああいった戦のやり方も仕方が無いと言えるほど元親は悟ってはいないが。
 だが、それを指示している元就自身も辛かったのではないだろうか。少なくとも戦のとき見たあの顔は元親の見間違いではないと思っている。
 だとしたらやはり元就は不幸だ。
 せめて今感じてるような幸せをもっと長く感じさせてやれればいいのに意地悪な神様は彼の時間をどんどん削っていく。
 しかし、不幸だとは思っても哀れには感じなかった。
 元就自身が言ったとおり彼はあの時はあの時で幸福だったのだ。
 今だってたとえ明日その命が尽きるとしても、元就は自身の一生に満足して逝くのだろう。
 元就の人生は元就のものであり、所詮は他人に過ぎない元親が唱える人生論など何の価値も無い。
 彼がそれで良いというのならそれで良いのだ。


「じゃ、俺そろそろ帰るわ。」
「そうか。」
「あんたに天からのお迎えが来る前にまあ後一回くらいは来てやるよ。」
「不要だ。それよりも貴様の方もつまらぬことで命を落とさぬよう気をつけよ。
 あの頃とは違うのだからな。」
 違ぇねえと元親は笑った。
 お互いに老いた。
 元親の方だって身体の節々が痛くなってきているし、瀬戸内海を渡るのだって一苦労だった。
 時は待ってくれない。
 でもそれは決して悪いことではないと思う。
「ま、でもあんたよりは長生きする自身はあるぜ。」
「ほざいておれ。
 ならば我は意地でも貴様の葬式に出てやろう。」
「出来ねえことを言うもんじゃねえよ。」
「その言葉、そのままそっくり貴様に返してくれるわ。」

 たわいも無い言葉のやり取り。何の裏も無い言い合い。

 あの頃には考えも及ばなかった現実が今、ここにあった。



2008.4.16