一筋の光さえ入ることの無い暗黒
自分の声さえも聞こえない静寂
自分の体温さえも伝わらない空間
未来永劫続くかと思われるほど永い間私はそこにいた
サクリ、サクリと砂を踏む感触を足の裏で感じながら、女は海岸を歩いていた。
奇妙な女だった。
身に纏う服は恐らく巫女のもの。だが、その色はまるで死装束のように全身が白一色。そして、やはり何の色にも染まっていない長布を頭から被っており、その所為で顔の上半分が隠れてしまっている。それはつまり、彼女自身の視界も覆われているということでもあるのだが、女の足取りはしっかりとしたもので、危ういところなど何処にも無い。
右手に携えた錫杖を杖代わりに使っているというわけでもなく、だからと言って俯いているわけでもなく、歩を進める彼女を、人々は眉を顰めて遠巻きに眺めていた。
しかしながら、遠くから眺めるだけに留まらず、近づいて来る者も居た。
「よぉ、姉ちゃん。アンタ暇そうだなぁ?ちょっとオレたちと付き合ってくれよ。」
下卑た笑みをその顔に張り付かせ、3人の男たちが、女の周りを取り囲む。
だが、そんな男たちなど存在しないかのように、彼女は変わらずに歩き続ける。
「おい、聞いてるのか?」
女のそんな態度が面白い筈がなく、態々女の前に立ちはだかり、男は顔を覗き込もうとする。しかし、やはり女は無視。男を押しのけて彼女は止まらずに進もうとした。その手を男が掴み、酒臭い息を吹きかける。
「無視してんじゃねえよ!それとも、耳が聞こえねえのか!?あぁ?」
流石に腕を掴まれているとなるとそれ以上進むことは出来なくて、女は仕方なしに立ち止まる。そして、小さく溜息をつき、目前の男を見上げた。相も変わらず、布が顔を覆っているのに、女がそれを取る気配は無い。
「耳はちゃんと聞こえるし、貴方たちの話も聞いていた。只、返事をする気が無かっただけ。」
「これで満足?」と、小馬鹿にした態度で、無論男たちが納得するはずも無く、その表情を憤怒のそれに変えて、彼らは女を睨みつける。
「言ってくれるじゃねえか。てめぇが今どんな立場にいるか教えてやろうか?えぇ!?」
「それはこっちの台詞だよ。お前たちこそ、自分がおかれている状況が分かってないみたいだからね。」
男の啖呵を返した言葉は女のものではなかった。
声のほうを振り向けば、赤い髪が特徴的な一人の少年。
「んだてめぇ…。」
「さっさと消えな。今回ばかりはそれで見逃してやるよ。」
怒りを露にした男たちを前にしても尚、少年は余裕の表情を崩さない。
「ふざけんな!」
女の腕を掴んでいるのとは別の男が、少年に殴りかかる。
少年は、それを半歩、身を退くことでかわし、代わりに自らの足を男の前へと出して、その足を掬う。古典的な方法だが、勢い付いた男は止まることも出来ずに、そのまま盛大に吹っ飛んだ。
「で?」
あからさまな嘲笑を浮かべる少年。
「なめんじゃねえ!!」
頭に血が上りきったまた別の男が腰に刺した刀を抜きながら迫る。大きく振りかぶった上段からの一撃。だがそれを、少年は男の手首を掴んで難無く受け止め、空いている手で逆に顔面を殴り飛ばした。
「ぶへっ!」
耳障りな悲鳴をあげ、先ほどの男と同様地べたに這い蹲る姿は無様としか言い様が無かった。
「さて、残ったのはお前だけだな?」
登場時と変わらぬ軽い物言い。だが、最後に残った――つまり、女の腕の未だに掴んだままの男は、啖呵を切ることすらせずに、少年の威圧感のある視線を、生唾を飲み込んで受け止める。
「この熊野で軽はずみな行動を取ったことをたっぷりと後悔させてやるよ。と、言いたいところだが、生憎と熊野の頭領はお前らみたいな小物を一々相手にしてられる程暇じゃない。そいつら連れてさっさと消えな。」
“熊野の頭領”という言葉が出た瞬間、男たちの表情が凍りついた。彼らは互いに顔を見合わせ、掴んでいた女の腕を放すと、足を縺れさせながらも一目散に逃げていった。
「覚えてろよ!」
雑魚特有の決め台詞を言い忘れることなく。
「大丈夫かい?」
暫し、呆然と男たちが走り去ったほうを見ていた女は掛けられた声に反応して少年に向き合った。
「怪我は無いみたいだね。」
「ええ、おかげさまで。ありがとうございました。」
礼を述べて軽く頭を下げる。
「気にするなよ。
オレはヒノエ。こう見えて、熊野水軍の一員やってる。」
「私のことはとお呼びください。」
「へぇ…。か。可憐で、お前にぴったりのいい名前だね。」
ヒノエと名乗った少年の甘美な言葉に、という女は再び「ありがとうございます」と頭を下げた。その時に、ずり落ちそうになる長布を押さえ、更に深く被り直す。
「でも、そんな長布を被ってるのは感心しないな。折角の花の顔(かんばせ)が全く見えない。」
言ってヒノエはさり気無く彼女に手を伸ばすが、あと少しというところで、は大きく一歩後退り、彼の手から逃れた。
「申し訳ありませんが、私の顔は美とは程遠く、醜く歪んでいます。それこそあの女好きの熊野の頭領でさえも思わず逃げ出してしまうほどに。
なので、恩人に対し失礼かとは思いますが、このままでご容赦ください。」
「そんな事は無いさ。
だってお前の声はそんなにも綺麗に響いているし、今見えてるところだけでも、姫君の顔が月も霞んでしまうほど美しいとオレに確信させている。
それに、熊野の頭領はどんなに不細工でも、女の顔を見て逃げ出すような無粋な男じゃないよ。」
「何度も言うように、そんな男も思わず顔を背けるような醜い顔立ちなのです。
お願いですから、もうこれ以上私の顔のことについては何も言わないでください。
でないと、今度はあなたを熊野の頭領に引き渡しますよ?」
予想もしなかったの言葉に、ヒノエは思わず噴出した。
「くっ…あはははははは!!」
突然笑い出した少年に、彼女は只微笑を浮かべているのみ。
一頻り笑い終えるたヒノエは「お前面白いな」と再び言葉を発した。
「そうですか?」
「ああ。まさか助けた女に『頭領に突き出すぞ』なんて言われるとは誰も思わないさ。
全く完敗だよ。お前の顔を見るのは諦めるから頭領に突き出すのは勘弁してくれ。」
「それならいいんです。
でも、私の顔を見たいだなんて相当の物好きですよ。」
「そうかな?お前みたいな美女の素顔は男だったら拝んで見たいと思うのは当たり前だと思うけどね?」
「美女ではなく、醜女の間違いです。
それで、いざ見てみたら幻滅するんですから男というのは勝手なものです。」
「はは!言ってくれるね。
ねえ、じゃあもしオレ達が結ばれる運命にあったら、いつかその素顔を見せてくれるかい?」
「そうですね。
もしもそんな運命があるとするなら、そんな約束は必要ないと思いますけど?」
「確かに。いや、ホントお前には敵わないよ。
じゃあ、オレはそろそろ行くとするかな。
今度会うときは素顔の姫君に会えることを期待してるぜ。」
そう別れを告げたヒノエは、彼女の返事を聞くことなく、踵を返して走り去って行った。
思わぬところで彼と面識が出来たと彼女は思った。
熊野に放り出されたときはどうしようかと焦ったがこれなら上手くやれば早期から源氏軍に組み込めるかもしれない。例えそれが無理でも彼に会うことは出来るだろう。
何にしてもこれを使わない手は無い。
「取り合えず熊野大社に寄った方がいいわね。」
そして彼女はヒノエが去って行ったのと同じ方向へ歩き出した。