ヒノエが熊野の頭領としての仕事を片付けたときは、夜もすっかり暮れていた。
早くしなければ譲の美味い夕餉が食べられなくなると足早に京邸に戻ると、ちょうど弁慶が出て行くところだった。どうやら六条堀川の九郎のところに行くらしい。
気付かなくてもいいのに、自分の存在に気付いた叔父は、いつもの笑顔で「お帰りなさい。」と近づいてくる。
「随分遅かったですね。」
「まあね。そう言うあんたは九郎のところかい?」
「ええ。
それよりヒノエ、貴方が別行動を取ってる間、僕らに新しい仲間が出来ましたよ。」
「仲間?」
ニコニコと微笑みながら首肯する弁慶に気付かれぬようにヒノエは内心舌打ちする。
「また新しい八葉ってやつか。
姫君を狙う野郎共が増えるのは勘弁してほしいね。8人揃わなくたって俺一人で十分だってのに。」
「安心してください。今回は八葉ではありませんし、男性でもないですから。」
ピクリと反射的に眉が動く。
「へぇ〜。大した女傑だね。
俺たちの仲間になるってことは当然戦場に行くことも分かってるんだろ?」
「ええ、ちゃんと理解してますよ。
何てったって彼女はリズ先生の師匠でもありますから。」
それを聴いた瞬間、ヒノエの顔が露骨に顰められた。
リズヴァーンの年齢は、どう贔屓目に見ても30代前半。そこから考えれば、新たに仲間に加わった“彼女”は優に四十路は越えてる計算になる。
「おいおい、そいつちゃんと戦えるのか?」
「大丈夫でしょう。本人も、そして何よりリズ先生も戦えると言っているんですから。
兎に角、夕飯を頂く前に失礼の無いように挨拶をしておきなさい。」
「言われなくても。」
減らず口を叩いて屋敷に入る。
どうやら夕食には間に合ったらしい。
弁慶にはああ言ったものの、はっきり言ってヒノエは新参者に興味が持てなかった。
下手をすれば自分の母よりも年上の“彼女”。そろそろ天からのお迎えがあってもおかしくは無い体で、とても戦闘が出来るとは思えない。
年寄はさっさと引退して、後のことは若者に任せろというのがヒノエの言。
だがヒノエが何と思おうと、居るものは居るのだから仕方が無い。
取敢えずさっさと済ましてしまおうと、決して狭くはない京邸を散策する。
「あんたが新しく仲間になるって言う姫君だね?」
そして早速お目当ての人物を探し当て、その背中に言葉を投げかける。
「如何にも。」
ぼんやりと縁側に座り、茶を啜っていた彼女は、後ろを振り向くでもなく、何とも素気ない返事を返した。
「つれないね。自己紹介もしてくれないのかい?」
「私の名が知りたいのなら、まずそちらから名乗れ。それが礼儀というものだ。」
古臭い言葉遣いに倣って考え方も古い。これは本格的に自分とは合いそうになさそうだった。
只、声は若かった。もしかしたら、自分が思っているよりも年老いては居ないのかも知れない。
「御尤も。
俺はヒノエ。白龍の神子である望美の八葉、天の朱雀だ。」
「そうか、私は……。」
漸く振り向いた彼女はヒノエと顔を見合わせた瞬間言葉半ばにしてその先を凍りつかせた。目を大きく見開き、ヒノエの顔を凝視している。
だが、それはヒノエの方も同様で、先を促すこともせず、呆然と彼女の姿を見つめていた。
一言で言うと若い。予想と違ったなんてものじゃない。裏切られた。
顔の肌には皺1つ無く、滑らかでどう考えてみても中年にすら見えない。ひょっとすると望美と同じくらいかもしれない。
「若いな。」
「は?」
気がつけば、声に出してしまっていた。
「あ…いや、リズ先生のお師匠って聞いてたもんでね。」
「そう……か。お主はそれを驚いていたのか。
はは…それもそうだな。」
額に手をやり、乾いた声で笑う。それが、あまりにも寂しそうで、ヒノエは言葉を失った。
だが、その表情もすぐに消え去り、どこか含みを持ったような笑みに変わる。
「まあ、お主が驚くのも無理は無い。面倒だから経過は話さぬが、私は25年前の時空から来たのだ。」
「25年?」
道理で若いはずだ。
感心すると同時に、人の悪い笑みを湛えた元荒法師の顔が頭に浮かんだ。
こうなることを予想して態と言わないでおいたに違いない。
性悪がと悪態を吐く。勿論、心の中で。
そんなヒノエを他所に、彼女は自己紹介を始める。
「はじめまして、ヒノエ。
私のことは弱竹のかぐやとでも呼んでもらおうか。」
さらりと言われた言葉に、ヒノエは二の句が告げられなくなる。
からかわれているのだ。それが分かった瞬間、ヒノエは自分の胸の内がムカッとするのを覚えた。
「何だか月からの使者が姫君を迎えに来そうな名前だね。」
「恐らく、来年の秋には月に帰らねばなるまい。」
嫌味を言ったつもりなのに、全く気にした風が無いのが癪だった。尤も、この場合は彼の聞き方にも問題があったのだが。
兎に角このままでは埒が明かない。
どうしたものかと、考えを巡らせていると、すっと彼女が立ち上がり、彼の元へと歩いてくる。
「先程も言ったろう?
自らの真名を名乗らぬものに何故こちらの真名を名乗る必要がある?
のう、ヒノエ?」
つーっとヒノエの頬を冷汗が流れる。
彼女はヒノエに本名を名乗れと言っているのだ。それはつまり、“ヒノエ”が偽名であることがバレてしまったということ。
「心外だね。俺が嘘を吐いてるとでも?」
「そう聞こえぬのならば一度弁慶殿に耳を診てもらうべきだな。」
どうやら誤魔化しは効かないらしい。参ったなと後頭部を掻くヒノエに更に彼女は言い募る。
「お主、熊野の人間だろう?それも水軍関係の。」
刹那、ヒノエの背中に戦慄が走る。
「全てお見通しってやつか。
何で分かった?」
「雰囲気……かの。
私は元服するまでは熊野に住んでおってな。故に、熊野の――特に水軍の男共が妙に女人を口説くことに情熱を掲げ、またその技術も巧みであることを知っている。
お主のその回りくどい物言いといい、目を引く仕草といい、水軍の男と同じ空気を醸し出していると私に思わせるのには十分だ。」
「成程ね。流石リズ先生のお師匠様、といったところかな?」
口角を上げ、不敵な笑みを浮かべつつも、内心ではこんなにも早く自分の正体が知れてしまったことに舌打ちした。幸いなのは自分が熊野の頭領だということも含め、全てをまだ知られてないこと。
「でも、こっちにだって事情があるんだ。だから、あまりそのことを無闇矢鱈と吹聴しないでほしいんだけど。」
「分かっておるよ。そのくらい。心配せんでも、口は堅いほうだ。」
彼女はどこか含んだような笑みを浮かべて言った。
遠くから、誰かの夕餉を知らせる声が聞こえる。
ポン、と肩に置かれていた手で、軽く叩き、「行くか。」と、ヒノエに呼びかけたのか、独り言なのか分からない曖昧な声量で呟くと、部屋を後にした。
結局、彼女の本名を知ることは出来なかった。
夕餉の後、自室にてあの時彼女がそうしていたように縁側に座り彼女のことを考える。
名前はというらしい。望美がそう呼んでいるのを聞いた。恐らく彼女自身も本気で隠し通す気は無かったのだろう。自ら名乗る気も無かったようだが。
彼女は、どうにもヒノエが苦手だとする部類に入る女らしかった。何もかもを見通しているような飄々とした態度は、どこぞの荒法師を思わせる。
だが、感情の隠し方はそんなに上手くはなかった。
「その点を考慮すれば、まだオレにも分があるかな。」
元々賢い女は嫌いではなく、寧ろ好ましい。思考回路が当然のことながら少々古いが、そこもまた可愛いところ。
顔を突き合わせる前までとは明らかに違う考えに、現金だなと自分でも思う。だが、男なんて皆そんなものだろう。
「オレから逃げられると思うなよ。」
この場には居ない彼女を思い、ヒノエは空に浮かぶ月に宣戦を布告した。
=後日談=
「おい、お前態とが時空を越えてきたこと言わなかっただろ?」
「おや?言ってませんでしたか?」
「言ってねえよ。
ったく、もう少しで余計な醜態晒すとこだったぜ。」
「それはそれは。大変でしたね、ヒノエ?」
「本心じゃないくせによく言うよ。」
「そんなことはありませんよ。
僕がちゃんと傍に居てあげればと後悔してます。」
「あんたの場合、オレが驚いてうろたえる様を近くで見たかっただけだろ?」
「よく分かりましたね。」
「あんたね……。」
「何ですか?(にこにこにこ)」
「………何でもない。(嘆息)」