「それは一体どうしたのですか?」
 出会い頭に唐突に弁慶に問われ、は思わず「は?」と問い返してしまった。
 そんなに彼は苦笑し、「これです」と言って彼女の左腕を自身の目の高さにまで持ち上げる。すると、袖がずり落ち、白い包帯が露になる。
「ああ、これか?
 稽古中に手が滑ってしまってな。
 だが、態々弁慶殿に診てもらうような大した傷ではないよ。」
 そう言って、彼女も弁慶に苦笑を返す。
 だが、視線を戻した先の弁慶は、笑ってはおらず、険のある目つきでを見つめていた。
「大した傷ではない?」
 鸚鵡返しに聞き返すと、俄かに弁慶は腕を掴む手に力を込めた。突然の痛みに呻き声は出ることは無かったが、顔が顰めるのを抑えることは出来なかった。
「僕にはそうは見えないのですが?」
「私にとっては大したことではないのだ。」
「大した傷がそうでないのかは薬師の僕が判断します。
 兎に角一度僕の部屋へ行きましょう。」
 有無を言わさぬ笑顔。に反論する余地を与えずに弁慶はさっさと踵を返して自室へと歩を進める。しかも彼女が逃げるとでも思っているのか、未だに左腕を掴んだままで。
「弁慶殿、私は平気だ。」
 道中、必死に弁慶を説き伏せようとするが、笑顔でかわされてしまい、仕舞いには、先程とは比べ物にならないくらいの力で腕を握られ、思わず呻いたところを「どこが平気なんですか?」と笑顔で聞かれる始末。こうなると、本当に薬師なのか疑いたくなってくる。
 だが、彼も彼なりに自分のことを心配しているのだと思うと、そうそう無下に扱うことも出来ない。本意ではないが、彼女は腹を括り、大人しくついていくことに決めた。

 の包帯を外した腕の傷を目の当たりにして、弁慶は露骨に眉を顰めた。
殿、これは本当に稽古中に傷めたのですか?」
 弁慶が訝しむのも無理は無い。彼女の腕を走る傷は、どう見ても戦闘中に負傷したとしか思えないような大きなものだったのだ。
「ああ、そうだが?」
 しれっと答えるの言葉に戸惑いや、躊躇は無い。
「嘘でしょう?」
「何故だ?」
「稽古中にこのような大きな傷を負えば、望美さんが黙っているはずがありません。」
「当然だ。神子殿たちとの稽古ではなく、私一人の稽古だからな。」
 言い終わってからしまったと思った。
「おや、それは不思議な話ですね。お一人の稽古でこのような傷が出来るものなのですか?」
 尤もな言い分である。彼女の腕の傷は、捻挫などではなく、明らかな切り傷であったからだ。
「これは……木の枝に引っ掛けて………。」
 苦しい言い訳だ。
「そんな場所では刀が振るえないでしょう?何故そのような場所で稽古をしようなどと考えたのですか?」
 案の定、誤魔化されてはくれなかった。
 彼女は知らず知らずのうちに弁慶の誘導尋問に引っ掛かっていたことに内心、臍を噛んだ。
殿、本当のことを話してください。」
 最早、彼を欺くのは不可能だった。

 が源氏軍に加わることが決まってから、彼女は九郎や望美にリズヴァーンと共に稽古をつけ始めていた。
 だが、5年もの間、子育てに従事していた所為か、明らかに現役の頃よりも劣っているのを常に感じていた。現役時代は、女であるにも関わらず、それなりに名のある武将と渡り合えるだけの実力があったというのに。
 故に、彼女は望美たちとの稽古とは別に稽古時間を設けていた。只、それは実践を重視したものであったのだが。

「成程。それで貴女は夜な夜な屋敷を抜け出しては怨霊退治に出かけていた、と?」
 笑顔を崩さず確認する。怒りを帯びたその笑顔が恐ろしいのか、弁慶と目を合わせないようにして、「まあ…」と言葉を濁す。
「だが、夜な夜なとは言っても、ほぼ明け方だ。空が白み始めるのを確認してから出掛けるのだからな。
 間違っても丑三つ時にそれをやろうなどとは思わん。」
「当たり前です。
 そもそも、貴女は怨霊を封印できるわけでもないし、ましてや陰陽師ですらない。下手をしたら死ぬ可能性だってあるんですよ?」
「大丈夫だ。そんなへまはせん。」
「そういう問題じゃありません。」
 暖簾に腕押しとは正にこのことを言うのではないだろうかと弁慶は思う。どんなに言ってものらりくらりとかわされてしまう。
 あまりの手ごたえの無さに思わず溜息が漏れる。
「弁慶殿、溜息を吐くと幸せが逃げるぞ。」
「誰の所為だと思ってるんですか。
 兎に角、今後そういった稽古はやめてください。」
「それは出来ぬ相談だ。
 私は源氏軍の足枷になりに来たのではない。」
「ですが、それでこのような怪我を負っては本末転倒もいいところです。」
 身も蓋も無い言い方に、流石のも鼻白む。
「貴女は十分強い。
 あの九郎や望美さんに稽古をつけられるのは、貴女が並みの武士ではないからです。
 それでいいじゃないですか。」
 まるで幼子を諭すような言い方だったが、別段彼女は怒るでもなく、只静かに瞑目してそれを聴いていた。
「弁慶殿。」
 やがて、ゆっくりと目を開いた彼女は、困ったような微苦笑をその顔に貼り付けた。
「やはり止めることは出来ぬよ。
 私にはやるべきことがあるのだ。その為にも、私は、もっともっと強くなりたい。今のままでは駄目なのだ。」
 恐らく、彼女の決意は固いのだろう。きっと、自分の言葉なんかでは揺るぎはしない。
 そんなにも強い精神を持っているにも関わらず、彼女はまだ弱いと言う。一体何がそこまで彼女を急き立てるのか。
 弁慶は一息ついてから、「仕方の無い人ですね。」と妥協の言葉を呟いた。
「きっと僕なんかが何を言っても聞きはしないのでしょう。」
「すまないな。」
「その代わり、2つだけ、僕と約束してください。」
「分かった。」
「一つ目は、怪我をしたらどんな些細な傷でも僕の所に来ること。
 二つ目は、怪我が治りきるまでは、殿が一人での怨霊退治をしないこと。
 いいですね?」
「約束しよう。」
「もし守れないようなら、縛り付けてでも貴女を部屋から出さないようにしますから。」
「武士に二言は無い。」
「それを聞いて安心しました。」
 「ふふ」と笑いを零して、弁慶はの腕の傷を再度確かめる。
 傷口は丹念に洗われてはいるが、所々膿んでいる部分がある。
 それを指摘すると、は誤魔化すように苦笑していたが、やがて観念したのか、手持ちの薬が切れ、薬草を集めに行く時間も中々出来ないのだと言った。
「そんなことだろうと思いました。」
 溜息混じりにぼやいて立ち上がり、薬が置いてある棚に向かった。
「面目ない。」
「本当にそう思っているのならあまり無理はしないでくださいね。」
 そして、の所に戻ってくると、手際よく治療を始めた。
「弁慶殿、ついでにもう1つ世話を掛けても宜しいか?」
「皆には言わないでくれ、ですか?」
 傷に目を向けたまま、そう問えば、僅かだが動揺したような気配が伝わる。
「よく分かったな?」
「ここにはお人好しが多いんですよ。僕のところに来る人は皆そう言いますから。」
「私の場合は、止められるのが煩わしいだけだがな。」
「確かに、リズ先生あたりには猛反対されそうですね。」
 リズヴァーンの名を出した瞬間、彼女の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪む。
「あれは私が蒔いた種だ。
 子供の時分は健康に気を使えと口を酸っぱくして言っていた結果だろう。」
「僕にはそれだけとは思えませんけどね。」
「どういうことだ?」
「いえ、何でもありません。
 それより、貴女の場合は、自分の身勝手な行動に彼女たちが心を痛めるのを良しとしないというのも理由の1つでしょう?」
 包帯を巻き終え、改めて彼女の顔を見ると、彼女は瞠目して弁慶を見ていた。
「弁慶殿は、よく人を見ておられる。」
「癖なんです。人の顔色を伺うのが。
 昔は間者紛いのこともしてましたから、人間観察は欠かせなかったんですよ。
 嫌な性癖でしょう?」
「そのようなことはない。
 それのおかげで救われた人は大勢いる。
 少なくとも、ここにいる連中は、細やかなことにまで気のつく弁慶殿に感謝している筈だ。」
「そうでしょうか?」
「そうに決まっている。
 大体にして薬師というのは、そのようでなくては勤まらぬものではないのか?」
 ひたりと見据えられる視線を弁慶は受け止める。
「何を負い目に感じているのかは知らぬが、そんなに自分を卑下するものではないぞ。まあ、多少の謙虚さも必要ではあるがな。
 弁慶殿は、薬師に相応しい人柄だし、私は弁慶殿が薬師で良かったと思っている。それでは不満か?」
 弁慶は小さく頭を振った。
「いいえ、ありがとうございます。」
 はそれに満足気に頷くと、徐に立ち上がった。
「長居をしてすまなかった。
 腕の治療、感謝する。」
 謝礼の言葉とともに、軽く頭を下げ、部屋を出た。
「そうそう、何か悩みがあるのなら誰か気の置けない者にでも相談するといい。話すだけでも心が晴れると言うしな。
 無論、私も出来ることならば力を貸そう。間違っても遠慮はするなよ。」
 敷居を跨いだ状態で振り返った顔は清々しい笑顔。思わず目を細めてしまったのは、外の光が眩しかったからだと自身に言い聞かせる。
「それでは失礼する。」
 部屋を出て最後に一礼すると、今度こそ彼女は弁慶の視界から出て行ってしまった。

――弁慶殿は、薬師に相応しい人柄だし、私は弁慶殿が薬師で良かったと思っている。――
 が去ったほうを見つめながら、先程の言葉を胸の中で反芻させる。
 相応しいと、そんなことを言われたのは初めてだった。ましてや自分が薬師で良かったと言われる日が来るとは夢にも思っていなかった。
 弁慶自身は、薬師など知識があれば誰でもなれると思っていたし、患者も別に治してもらえるのなら誰でもいいのだろうとも思っていた。
「過去の贖罪の為に人を救っているのだと、貴女がそれを知った時、それでも貴女は僕が薬師で良かったと、そう言ってくれるでしょうか?」
 それでもきっと、彼女は「良かった」と言ってくれるような気がした。恐らくそれは自分の自惚れ以外の何者でもないのだろうけれど。
「ありがとうございます。」

 暗闇に仄かな光が差しこんなような気がした。