飲んだ酒が不味く感じるのは生まれて初めてだ。
「では我はこれにて失礼するが、貴殿らはゆるりとしていかれるが良かろう。」
 そう言ってこの城の主、毛利元就は殺気立った宴の席を立った。
 そう、今この宴会場は殺気立っている。豪華な料理が並び、酒も振舞われてはいるが、この宴が名ばかりであることをこの場に居る誰もが理解していた。
 まあ、毛利との戦があったのが昨日の今日だしな。仕方ないっちゃあ仕方ないだろう。
 俺だってまだあいつに対しての怒りが消えてない。
 織田が西国へ向けて進軍中という報せがなければ絶対に毛利と顔つき合わせて酒を酌み交わすなんてことはしなかっただろう。
 更に言わせて貰うなら、進軍しているのが織田でなければ休戦協定ならいざ知らず、軍事同盟を結ぼうなんて死んでも考えなかったに違いねえ。互いを警戒しながらでは勝てないというのは勿論だが、相手が織田なら共同戦線を張った方がより勝率は上がるだろうという毛利の提案に乗った。そして俺は厳島を踏み荒らしたその足で毛利の居城に赴いた。と、云う訳だ。

 出される酒は上等なものだがどうも上手いと感じられねえ。
 俺はあたりの様子を伺った。連れて来た野郎どもは比較的大人し目の奴らを選んで連れて来たから、酒が多少入ったところで乱闘騒ぎになることはまず無いだろう。
 俺は杯に今入っている酒を一気に飲み干すと立ち上がった。
「悪いが俺もそろそろ抜けさせて貰うわ。
 おめえら、酒入ってるからって羽目外すんじゃねえぞ。」
 いらねえとは思ったが一応念を押して俺も部屋を出た。
 俺に当てられた部屋までの案内と、毛利軍の兵が立ち上がるが俺はそれを目で制す。
「俺はそんなに馬鹿じゃねえよ。」
 言外に客室までの道ぐらい覚えているというのと、勝手に城内を散策なんかするかという意味を含ませて、監視役の男を置いてさっさと出てきてしまった。

 足がふらつく。不味い不味いと思いながらも結構な量を飲んでたらしい。
 それでも転ぶことは無く、そのまま歩を進めてた俺はあるところで足を止めた。
 その先は毛利の私室があるということで俺らが立ち入りを禁止されているところだった。
 そこに女が居た。いや、女の格好をしているが女と言っていいのか分からない。月をじっと見詰めているために横顔しか見えないが、そいつは――
「    」
 口だけ動かしたつもりが、どうやら声も出しちまったらしい。
 こちらを振り返る。顔の右側が翳っている。やっぱり。驚きに目を見開いている様は正しくあいつだ。
 ちょっと待て。あいつ女装癖なんてあったのかよ。
 驚いた拍子にぐらりと視界が傾いだ。
 バランスが取れない。
 そのまま床に無様に倒れた俺は側頭部を強く打ち、情けなくも意識を手放した。
 最後に見たのはあいつが慌ててこちらに手を伸ばしているところだった。

 ズキズキと痛む頭に載せられた濡れ手拭の感覚に引き摺られるように目を開く。
 まず目に入るのは天井の木目。まあ、当たり前だが。
「お目覚めですか?」
 声を掛けられて初めて脇に人が居たことに気付き、横に視線をずらしてその人物を目に入れた瞬間ぎょっとした。
 癖の無い真っ直ぐな茶色味を帯びた髪に糸のように細い目、筋の通った鼻筋の端正な顔立ちの美人。だが、それは左側だけ。顔の右側、額から右目の眦の横を通り、顎まで達する大きな刀傷、そして更にはその傷の上半分を覆うように広がった火傷がその美貌を台無しにしてしまっていた。いや、左半分が綺麗に整ってる分、おぞましいとさえ思える。
 そしてその細い左眼と口元は絶えず笑みをかたどっていて不気味だ。
 髪が肩口で切り揃えられているところを観ると尼僧か。
「あんたは?」
「失礼しました。私はと申します。」
 幾分か緊張した面持ちで尋ねたのにもかかわらず、その女――は手を床に付き、頭を深々と下げて極々普通に平凡な自己紹介を返した。
 ………ぶっちゃけ取って食われるんじゃないかと思ってた分はっきり言って拍子抜けした。
「貴方様はお酒の飲みすぎで倒れられたのですが、覚えていますか?」
 記憶を手繰り寄せてみる、が…。
 ………。
 駄目だ。客室に戻ろうと立ち上がってからの記憶が無い。
「覚えていないのですか?」
「あ〜、まあ……。」
「僭越ながら、私室に運ばせていただきました。」
「そうか、礼を言うぜ。ありがとよ。」
 酔って倒れるとか、カッコ悪すぎだろ、俺。しかも介抱までされちまったし。そして記憶無いとか最悪だよ。
「気にしないでください。ただ、宴の席ですし、説教するつもりもありませんが、お酒の飲みすぎは身体に毒ですので、倒れるまで飲むのは出来れば控えた方がいいと思います。」
「分かってる。あんたには迷惑掛けたな。」
「いいえ。
 お水、飲みますか?」
「おう。」
 何だ。話してみればなんてことはねえ。普通の女だ。
 自己嫌悪。顔の火傷でを恐怖した俺は幼少期に異質な俺の左目を蔑んでた奴らと同類だ。
「起きられますか?」
 俺の視線の意味を分かってるだろうに、それでも優しく微笑むことができるこいつは凄い。
「あの……?」
 先ほどから顔を凝視されているは水の入った椀を持ったまま困惑の表情を浮かべていた。
 悪ぃと慌てて上半身を起こし、頭から落ちた手拭を渡して椀を受け取る。
ピト
 それを口にしようとした瞬間、冷たい何かが額にあたり、思わず俺は動きを止めた。
 ゆっくりと顔を上げれば何やら思案気に左手をこちらへ伸ばしているの姿。
 ああ、熱を測ってるのか。
 俺の予想通り、は握っていた手拭を膝に残し、残った右手を己の額に当て、数秒固まる。
「あら?」
 だが、は小首を傾げ、ぺたぺたと自らの顔――特に火傷の部分を重点的に触りだした。
「あらあら。」
「どうした?」
「私としたことが、包帯を取ったことを忘れていました。」
 お……おいおいおいおい。こう言っちゃ何だがさっきからずっと不審気な視線投げかけてたのに全然気付いてなかったのかよ。さっき思ったことは訂正だ。っつか鈍いにも程があるぜ。
「長時間見苦しいものをお見せしてしまってすみません。包帯を巻きなおしたいところですが、中々時間が掛かる作業なので、今回のところはこれでご容赦ください。」
 そう言っては右手を目線よりやや上まで上げた。そうすると、ちょうど袖で顔の右半分が隠れる。
「いや、確かに最初見たときはびっくりしたけど、別に見苦しいなんざ思ってねえから、隠さなくてもいい。」
 俺自身、幼少期のこととかがあるから、外見で人を判断する気はねえし。……さっき思いっきりびびってて説得力は無いだろうけど。
 だが、向こうの方は俺の言葉が以外だったらしく、糸目を瞳が見えるくらいまで見開かせていた。
 あれ?俺、この顔どっかで見たことある……?
「では、お言葉に甘えて。」
 悩む俺を他所に、は再び元の笑顔に戻り、焼け爛れた右側を晒した。
「なあ、あんた前にどっかで会ったことねえか?」
「?いいえ。私の記憶にはありません。」
「っかし〜なあ。なーんか、あんたの顔見たことあるんだよ。」
 後頭部をガシガシと掻きながらそう言えば、向こうの方は合点がいったようで、ああと呟きを漏らした。
「恐らく弟と見間違えているのだと思います。」
「弟?」
「ええ、私は傷さえなければ弟と瓜二つだと言われていましたから。貴方様が倒れられる直前にも弟の名を呼んでいましたし。」
 そう言われてみればの顔はどこか中性的であり、男としても通るような顔立ちだ。
 だが、その弟とやらがさっぱり検討つかねえ。身なりから物腰から、家臣ではなく、どっかの姫さんだってのは分かるが………。雰囲気的には前田だが、それならまた慶次あたりが俺んとこに来るだろう。政宗……に似てるようには見えない。大体、あいつが自分の身内を人身御供に差し出すような真似をするわけが無いし、中国にそれをする意味も無い。
 ………さっぱり分からん。
 俺が悩んでいる間もはただ静かに見守っている。こういうところは越後の軍神っぽいが、流石にそれは無いだろう。
 と、不意に後ろの襖が開く気配がした。
 途端にの眉が顰められる。
 どうしたと俺が声を掛けるより早く、背後の人物が言葉を発した。
「姉上、まだ起きておられたのですか。」

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