あちらこちらで土煙が上がり、雄叫びが聞こえる。刃と刃が交わる音。漂う血の臭い。
戦況は不利だ。もう我の目が届くところまで切り合いが見える。
伝令、伝令と煩く兵が駆け回っているが、最早そんなものは必要無かった。
「元就」
自分の声すら聞こえない喧騒の中、やけにはっきりとその声は聞こえた。
いつも通りの静かな声。振り返ればいつも通りの穏やかな笑みを湛えた姉上の姿。
「姉上、如何しました?」
遠くで敵将討ち取ったり!という声が聞こえた。恐らくは我の家臣の一人が討ち取られたのだろう。また我の計算が狂う。
「元就」
再び我が名を呼ぶ。
敵の鬨に気を取られている間に数歩近づいていた。
奴らの声が煩い。
「元就」
更にまた数歩歩み寄る。
煩い。
「元就」
また数歩。
「元就」
気付けば姉上は我の目の前まで来ていた。
「姉上?」
ドッ
我の胸から体内に冷たい何かが入り込んでくる。
冷たい?否、熱い。それも違う。何にも感じない。
視線を下げれば参の星の紋が入った短刀が我の胸から生えている。
じわりじわりと血が滲む。
「元就」
ああ、耳鳴りが煩い。
「………っ!!」
声にならない悲鳴を上げて我は飛び起きた。早鐘のように鳴る心臓が煩い。冷や汗を含んだ衣が肌に張り付いて気持ちが悪い。頭も痛いし、体もいつもより重い気がする。
これで何度目になるのだろう。夢の中で我が姉上に殺されるのは。
姉上が我を恨んでいるのは知っている。無理も無い。姉上の未来を奪ったのは我だ。挙句、山奥に閉じ込めた。
姉上に取られるのなら我の命など惜しくは無いがまだそれは出来ない。まだ毛利の地は磐石ではないのだ。せめて、将来の禍根を断つまでは……。織田との戦もまだ終わっては……。
戦?
そうだ。確か我は合戦の真っ最中だったはず。
にも関らず何故我はここに居る?
よくよく見ればここは駕籠の中だ。不規則に揺れているところをみると恐らくは移動中。
具足も外され、動き辛い法衣のようなものを着せられている。
どういうことだ?状況が全く掴めぬ。
思い出せ。我に何があったのか。戦の最中に何が起こったのかを…。
不利な戦だった。先程の夢の中程緊迫した状況ではなかったが、厳しいには変わりなかった。
長曾我部の援軍は織田の別働隊に足止めされている所為で期待は出来ない。
最早これ以上の策は無駄。かくなる上は我自らが出るしかあるまいと腹を括っていた時だ。
「元就」
姉上が本陣に姿を現したのは。
本陣に居るのは我と、3人の息子たち、そして姉上だけだった。
ふらりと現れた姉上は連れて来た従者を陣の外に待機させ、息子たち一人一人に激励の言葉を掛けていた。
「姉上、そろそろお戻り下さい。こことて安全とは言い切れぬのですから。」
「そうは言いますが元就、私はまだ織田のことについて何も貴方に話していないではないですか。このままでは何のために私がここまでついて来たのか分かりません。」
比叡の尼僧だった姉上は以前織田と対峙した経験がある。顔の火傷はその時のもの。
どこで聞きつけたのか、この度の戦の相手が織田だということで出立の前に姉上は織田とのその経験を生かしたい、と戦への同行を願い出たのだ。
当然ながら皆反対した。だが、姉上の意思は固く、自ら武器を持ち戦う女性は他軍にも居るし、薙刀を持たせてもらえれば自分の身は自分で守る、邪魔には決してならない、もし邪魔だと感じるようなら家臣同様切り捨ててもらって構わないとまで言われれば頷かざるをえなかった。
我としては役に立たずとも奥で大人しくして欲しかったのだが。
「それで、元就。織田の様子は?今どのような策を?」
「姉上!!」
「まあまあ、少し落ち着いてください。」
声を荒げたところで軽く往なされて終い…か。ならば――
「姉上、我の邪魔になるようなら切り捨てられても構わないと言ったこと、よもやお忘れではないでしょうな?」
「ええ、忘れていませんよ?
邪魔ですか?」
「邪魔です。
繰り返しますがお戻りください。」
姉上の顔を真っ直ぐ見つめ、即答すると流石の姉上も顔を顰め我から視線を逸らした。
「……………此度の戦、毛利は負けるでしょう。」
「!?」
再びこちらに顔を向けた姉上はいつものあの笑顔ではなく糸目が開かれた真剣な面立ちだった。
あの眼は苦手だ。あの瞳が映して居るのは恐らく我が躯と化した姿であろう。
「我が織田に負けると?フ……フフフ。姉上は随分と面白い冗談を言うようになりましたな。」
「元就。」
「姉上は少し戦の真似事をしただけで戦の全てを知り尽くしたように感じておられるのかも知れませんが、戦というものは斯様に甘いものではございません。女、ましてや俗世を切り捨てた僧である姉上に分かる筈がないのです。
たとえ、もし負け戦となる結果でもここは引けませぬ。否、我が策を用い、勝ち戦に転じてみせます。」
「しかし、惨敗という結果に終わるよりは引く方が良いのではないですか?この戦で貴方も織田の手口が分かったでしょう?」
「――っ!!」
引くに引けぬ状態なのだ!!
激昂し、怒鳴りつけそうになるのを理性で押し止め、大きく息を吐く。
我の雰囲気を察したのか、姉上が水をと差し出してくる竹筒を受け取り、数口含む。
「私とて、何も分かっていないわけではないのですよ?
ただこのまま負けが明らかな戦をし続けるよりも良き策があると言っているのです。」
「良き策?」
馬鹿な。そのようなものがあれば疾うに我が用いているわ。
「成る程、ではその策とやらは一体どのようなものなのかお聞かせ願えませせぬかか?」
!?
ぐにゃりと歪む視界。立っていられずに膝を付く。
姉上を見上げれば先程までの真摯な面差しはなりを潜めたいつもの姉上がそこに居た。
「ああねうううえ?」
舌が回らぬ。
「元就。」
我を呼ぶ声さえいつも通りで、我はそこで漸く先程の水に薬が盛られていたのだと気付いた。
「元就」
ここで気を失うわけには……。
「私は」
駄目だ。意識を保っていられぬ。
「貴方を」
姉上……。
「 」
そこでぷつりと我の記憶は途切れていた。
姉上が我を恨んでいることは知っていたが、あれほどとは。せめて中国が安定するまで待っていただきたかったが。
だが、恐らくこれが一番の上策なのであろう。
我の首を織田方に捧げ、毛利は織田の傘下にて中国を安堵させてもらう。中国に危機が迫れば織田の保護を得ることも出来る。そして何より大義名分の元に姉上の復讐も成る。
これで、良かったのだ。
そこまで考えが及んだ時、俄かに駕籠の進行が止まった。
我の最期か。せめて今一度だけ日輪に今日までの感謝とこれからの毛利の無事を祈りたいが、魔王とまで呼ばれ恐れられている織田のこと。そのような恩赦は期待せぬ方が良いだろう。
外が騒がしくなる。我も武士の端くれなれば、戦で散る覚悟は疾うの昔に決めておる。
だが、喧騒は少し様子が違っているようだ。
「お待ちを!まだ――」
……………?
本当に何が起こっておるのだ?
動きにくい衣装に変えさせられているとはいえ、手を戒められているわけではない。
我は外の様子を伺おうと手を伸ばした。
刹那
ガッ!
唐突に差し込んできた大量の光を直視できず、思わず伸ばした腕をそのまま眼前に翳した。
「おい!大丈夫か!?」
騒々しいとか、大丈夫かではないとか、いつもなら口にするそういった台詞を全く口にすることなく我は不覚にも呆然としてしまっていた。
駕籠を開け、我が安否を尋ねた人物は長曾我部であった。
まさか、こやつが我を助けに来たとでもいうのか?
ありえぬ。天地がひっくり返っても。
だがしかし、目の前にいる長曾我部は間違いなく本物だ。そもそもここで長曾我部の偽者を用意する意味も無い。
堂々巡りの思考の渦から抜け出せないでいる我を見て何を思ったか長曾我部は悲痛な面持ちで俯いた。
「すまねぇ。毛利の……元就のことは俺も何とかしてやりたかったんだが……。
気付いたのが遅すぎたんだ。いつもみたいに、“策だ”って言ってたから…まさか……。」
………………?
待て、どういうことだ?
我?我がどうしたと?
第一我は長曾我部に策など出しておらぬ。
「…長曾我部……。」
我はやっとのことでそれだけを搾り出した。瞬間、呼ばれた当の本人ははじかれたように顔を上げ、こちらを見た。その顔は驚愕に眼を見開いていた。
「え…?お…お前……もしかして毛利か?」
「我以外の誰に見えるというのだ。」
まさか、と再び驚嘆の言葉を吐き出して恐る恐る我の右側に手を伸ばした。一瞬弾き返そうかとも思ったが、奴の様子が尋常で無かったため好きにさせた。
はらり、と何かが落ちた。白い包帯だった。どうやら我はそれで右目を塞がれていたらしい。目が覚めてから感じた違和感が綺麗になくなっている。
「何で…?傷が…傷がない……。」
「?どういうことだ長曾我部?」
「じゃあやっぱりあんた毛利元就なのか!?」
「だから先ほどからそうだと言っている。
それより我の質問に答えよ!」
「煩ぇ!!
何で…何でてめえが此処に居るんだよ!!?」
「言ってる意味が分からぬ!」
「てめえは此処に居るはずがねえんだ!織田軍に捕虜になってるんだからな!!」
………こやつは何を言っている?
我が織田軍に捕らえられていることなど明らかではないか。
だが、こやつの口ぶりではまるで……。
「長曾我部よ。戦の経緯を具に話せ。」
事の瑣末は単純だった。
長曾我部が言うには、毛利から伝令が来て、こう告げたのだそうだ。
戦況甚だ不利。よって直ちに退却をし、軍を立て直すべし。
殿は元就様率いる少数精鋭が勤める。
当然ながらそんな指令は出した覚えがない。
ならば、一体誰が?
「なあ、毛利。俺たちが撤退した後、またてめえのところから伝令が来たんだよ。
そいつらの話に因ると、『殿を務めた毛利元就は織田に囚われた』らしいんだ。
だがあんたはここにいる。じゃあ、一体誰が捕まったんだ?てめえはまた誰を犠牲にしやがったんだ!?
え?言って見ろよ!!」
「分からぬ奴よ。知らぬと先ほどから言うておるであろう?
大体我は姉上に――」
姉上?
「……毛利?」
「長曾我部、そなた最初我を誰と間違えた?」
「あ?そんなのに決まって――。」
不自然なところで言葉を切る。どうやら奴も気付いたらしい。
我の着ているこの法衣はよくよく見れば姉上が身に着けていたものだ。そして長曾我部が取るまで我の右目には包帯が巻かれていた。
これらのことから結論づければ答えは容易く出る。しかし、何故――?
「まさか、あいつ……お前の身代わりに…?」
「ありえぬ。斯様なことはありえぬ!」
「も……毛利?」
姉上の未来を奪ったのは我ぞ。
「天地が引っ繰り返ろうと、日輪が地に堕ちようとありえぬのだ!!」
だが、なら何故姉上はここにいない?何故我が此処にいる?姉上は何を考えている?
落ち着けと長曾我部は言う。しかし奴では堂々巡りを繰り返す我の思考を止めるに至らない。役に立たぬ奴よ。
思考がそれる。考えても考えても纏まらない。
姉上、姉上は一体何を考えておられるのですか?
我はどんな罪の償いを求められているのですか?
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